書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『リリース』古谷田奈月(光文社)

リリース

書いた人:八木みどり 2016年12月書評王
1985年山形県生まれ。早稲田大学第一文学部卒。地方紙を経て子ども向けの専門紙で記者をしています。三十路。

 

 

 古谷田奈月の『リリース』は、メビウスの輪を思い起こさせる。「男女平等、同権」を目標に掲げながら、しかし実現には成功していないこの現実社会を180度ねじってみることで、どちらが「表」とも「裏」とも言えないものを見せてくれる。

 舞台となるオーセルは、女性首相のミタ・ジョズによって同性婚が合法化され、男女同権思想が法律で確立された国だ。国営の精子バンクがあり、未婚者も同性婚者も、子を授かることができる。そこは、「マイノリティという存在を概念ごと消し去ることに成功した」素晴らしい社会――だとされる。そんな中、国の中枢を担う存在である精子バンクの建物が、タキナミ・ボナとオリオノ・エンダという男子学生によって占拠されるテロが発生する。2人はともに異性愛者。ボナは建物を取り囲む群衆に向かって国家の罪を暴露し、そして叫ぶ。「ミタ・ジョズはかつてのマイノリティをマジョリティ化しただけだ」。オーセルではもはや、異性愛者は差別されるべき存在になっているのだ。

 現実社会を裏返した物語かと思いきや、結局、見えてくるのは、マイノリティが虐げられる「表」と同じ光景だ。そこには、「男女平等」「共同参画」「女性が輝く社会」などとうたう現実世界への皮肉がにじむ。だが物語はそれで終わりではない。

 やがて暴走を始めたボナをエンダが撃って、テロは幕を閉じる。逮捕の後、自らの行動を悔い、精子バンクの存在意義とミタ・ジョズを称賛したエンダは政府に取り立てられ、国家公務員の身分を与えられる。その仕事は、精子提供を拒む男性を説得し、提供を促す「リクルーター」。エンダの本当のテロは、ここから始まる。男が男であるということは、オーセルでは「精子提供者」としての存在意義しか持たない。「奪われる」存在であるエンダは、だから女を憎む。だが一方で彼は、一人の女を愛し、交わることを望む。壮大な復讐劇の一方で、人を愛するという行為はなくならない。

 メビウスの輪は、幅を2等分するように切っても、またねじれた一つの輪になる。3等分すると、絡み合う二つの輪になる。男と女は、裏と表のように見えて、実はひと続き。性と愛もまた、別々のように見えて、切り離すことはできない。「裏」をなぞって読んでいくと、いつの間にか表もなぞっている。現実社会のアンチテーゼの先に、普遍性が見える。この小説のすごさはそこにある。

 

リリース

リリース

 

 

『くじ』シャーリイ・ジャクスン(深町眞理子訳)

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

書いた人:成毛 満千(なるけ まち) 2016年12月書評王
福島県生まれ
10代で演劇、20代でダンスをはじめる。
本好きな元キャバレーの踊り子。
2016年4月、書評講座の門をたたく。

 

 幼い頃、夏休みに田舎の祖父の家に行くのが楽しみだったんですね。牛、馬、鷄、兎、犬、猫、たくさんの動物がいましたので。猫以外は生活のために働く動物たちです。ある夏、犬が子どもを5匹産みましてね。祖父はいちばん元気な仔犬を1匹選ぶと目も開いていない4匹を麻袋に入れて川に沈めてしまうんですよ。しばらくして袋を引きあげると、代々の犬が眠る場所に埋めてしまいます。そして言うんですね。「ここらじゃ、皆そうしとる」って。またの夏は、東京から夜店で買ったヒヨコが育ち飼いきれなくなったのが連れてこられました。田舎の鷄に馴染めず騒ぎをおこしましたので、祖母に鉈でチョンと首をはねられて夕飯の材料にされてしまったんですよ。祖母は「ここらじゃ…」とは言いませんでしたけど。仔牛が産まれた夏がありました。早朝、見に行くと目をまん丸にしてすりよってくるんです。可愛いです。すぐさま馬喰がやってきて売られていきます。ドナドナです。「ここらじゃ、皆そうしとる」小さいわたしは呟きました。すっかりこの言葉が気に入ってしまい、親に叱られると「ここらじゃ、皆そうしとる!」といい返したりしました。「ここら」というのがどこをさすのか、はっきりわからないけれど漠然とそういう場所があるんだと思ったんですよね。

〈メリキャット お茶でもいかがと コニー姉さん
とんでない 毒入りでしょうとメリキャット〉

 シャーリイ・ジャクスンの『ずっとお城で暮らしてる』の1節。不穏ですよね。毒入りの砂糖で家族が死んでしまい、残った姉妹と伯父さんが広い屋敷に引きこもりながらも“楽しく”暮らしています。それを奇矯な妹メリキャットの目線で描いた作品。

『丘の屋敷』(「たたり」改題)では幽霊屋敷に絡めとられていく狂気を、単なるホラーではなく、追いつめられて逃れられないような恐怖に仕立てあげています。

 ジャクスンはオカルトに通じ、自ら“魔女”と称したように、その小説は悪魔的、残酷、悪意に満ちたと評されることも多いのです。

『くじ』には22編の小説が入ってます。それらは人の悪魔性、残酷さ、悪意についての物語と言えると思うんです。怖い、とても奇妙、面白いけれどあまり関わりたくない、そんな余韻に満ちてるんですね。じゃあ、何がそんなに変な感じなのか?と思ったりもします。気づいたんですが、どうやら心の中のくぼみにある何かがつよくいやがりながらも、ものすごく待ち望んでいるんですね。その残酷やら悪意やらってやつを。くぼみの中には、ふだん、気の迷いだとか考えてはいけないないだとかで隅に追いやられた意地悪とか嫉妬とか嘘とか自慢とか偽善とか復讐心とか、あらゆるいけないとされることがうずたかく積もり積もってるんです。思いあたりませんか?たまにくぼみが溢れ出しては意にそぐわない振るまいをしてしまい貴方は言います。

「ここらじゃ、皆そうしとる」。

 そうです。『くじ』は「ここらじゃ、皆そうしとる」という小説群なのです。「ここら」って何処かっていうと、あるひとりのいち部分だったりあるいち家族だったり、集合体まるごとぜんぶだったりします。そこでは「ここら」に属さない人から見れば正気を疑うようなことが繰り広げられていくんです。怖いですね。面白いですね。

 表題作「くじ」では、それが特に際立ってます。年にいち度行われるくじ引き。広場に集まった住民はひとりいち枚、箱からくじを引くのです。この行事はもう誰も覚えていない程の昔から受け継がれている儀式なんです。そして当たりくじを引い者は…。
最後のページで貴方の心のくぼみの何かが蠢くと思いますよ。心して読んでください。

「このあたりでは、皆そうしていますから」

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

 

『冬の夜ひとりの旅人が』イタロ・カルヴィーノ(訳/脇功)

冬の夜ひとりの旅人が (白水Uブックス)

書いた人: 鈴木隆詩 2016年11月ゲスト牧眞司
フリーライター(主にアニメ音楽) 

 自らの体験である第二次世界大戦中のパルチザン活動を描いた長編第一作『蜘蛛の巣の小道』から始まり、作品ごとに作風を変えていったイタリアの作家イタロ・カルヴィーノ。その著作には、地上に一歩も降りずに一生を暮らした男を描いた『木のぼり男爵』や、マルコ=ポーロによる架空の都市の見聞録という体裁の『見えない都市』、SF的な要素を取り入れた『レ・コスミコミケ』など、多彩な作品が並ぶ。そんな彼の最後の長編となったのが、1979年に発表された『冬の夜ひとりの旅人が』。この作品には、小説内小説として10編の冒頭部分が登場する。それがまた色とりどりなのだ。

 主人公は、小説の冒頭部だけを繰り返し読むことになり、その続きを追い求める〈男性読者〉。彼はまず、イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人に』を読み、次にポーランド人作家バザクバルの『マルボルクの村の外へ』を読み、次にチンメリアの詩人ウッコ・アフティが残した唯一の小説『切り立つ崖から身を乗り出して』を読む。その全てが途中で途切れ、続きが気になって、さまざまな手がかりを探す〈男性読者〉は、その度に〈きのう読んでいた小説とは全くなんの関係もない〉新たな小説の冒頭部を手にすることになるのだった。

 もちろん、チンメリアなどという国は現在も過去も実在したことはなく、カルヴィーノのホラ話は、物語が進むごとにドライブ感を増していく。日本人として楽しいのは、8番目に出てくる『月光に輝く散り敷ける落葉の上に』だろう。日本文学のあからさまなパロディで、〈オケダ氏の末娘のマキコが、上品な立ち居振舞いとまだわずかにあどけなさを残した美しい容姿を見せて、お茶を持ってきた。お辞儀をすると、ひっつめて上に巻き上げた髪の毛の下のうなじに細いうぶ毛が背筋まで続いているかのように見えた〉という、谷崎的というか、いかにもありそうな女性描写には、思わずニヤリとしてしまう。
 他にも、ラテン文学ありスパイ小説ありと、さまざまなジャンルが並び、〈男性読者〉と同じ、続きを求めずにはいられないもどかしさを味わえるのが、この作品の快楽ポイントだ。

 それと同時に、ラブストーリーも用意されている。〈男性読者〉が書店で出会うことになる若い女性ルドミッラ。彼女もまた、次々と現れる小説の続きを追い求める〈女性読者〉であり、〈男性読者〉にとっては、魅力的かつ謎めいた想い人になっていく。面白いのは、ルドミッラのような雰囲気を漂わせる女性が、各“小説内小説”にも入れ替わり立ち替わり登場すること。ルドミッラのイメージは、作品全体にふわりと漂うことになり、〈男性読者〉の恋は読書体験とともに深みに落ちる。人生と読書が分かちがたくあり、その果てに男性読者は遥か南米まで運ばれていくことになるのだ。

 さらに、スランプに陥った老作家のサイラス・フラナリーや、フラナリーの翻訳者であり、かつて二つの秘密結社を作ったという謎の人物エルメス・マラーナといった登場人物が現れ、〈男性読者〉の読書体験を複雑なものにしていく。〈私は書き出しの部分だけがある本を、そして全体にわたって冒頭部のもつ可能性が、まだ対象の定まらない期待感が持続するような本を書くことができたらと思う〉とフラナリーに語らせているカルヴィーノ。これは『冬の夜ひとりの旅人が』のテーマそのもの。果てることのない〈期待感〉の連なりは、永遠の命のようでもあり、絶頂に至ることのない男女の交わりのようでもある。

 1981年の松籟社版、1995年のちくま文庫版、そして2016年に出た白水Uブックス版と、時を置いて、何度も復刊を果たしている『冬の夜ひとりの旅人が』。この作品が古びないのは、知的な遊戯のところどころに、心地よい肉体性が潜んでいるからだ。

 

『蜜蜂と遠雷』恩田陸(幻冬舎)

蜜蜂と遠雷

書いた人:白石 秀太(しらいし しゅうた)
同志社大学文学部美学芸術学科卒。会社員

  

 感情が高ぶる、高ぶる。
 世界のコンクールの中でも注目度の高いという〈芳ヶ江国際ピアノコンクール〉に各国から集まったピアニストたちの戦いを描く恩田陸の『蜜蜂と遠雷』。三度の予選と本選の、二週間にわたって繰り広げられる演奏家たちのぶつかり合いに最後まで興奮させられっぱなしだった。芸術に優劣がつけられて参加者がふるい落とされていくのは残酷だ。でも著者はそれをひっくるめた上で、ほんの一握りの才能が選び抜かれる瞬間の凄まじい歓喜をこの一冊に詰め込んだのだ。
 見どころは勝ち残り戦だけじゃない。全編にわたって溢れる、音楽だ。各章のタイトルからして音楽一色。課題曲でもある〈平均律クラーヴィア曲集第一巻第一番〉という章もあれば、〈『仁義なき戦い』のテーマ〉なんていう名前も。さらに物語の中心となる、経歴も音楽性も違う4人の演奏家が一人一章ずつ登場する際も、各人物を演出するかのような章題になっている。まず〈前奏曲〉の章で登場するのは自宅にピアノすらない養蜂家の息子、風間塵。震音を意味する〈トレモロ〉の章では、幼少期には雨の連続音にリズムを感じていたほどの才能で国内外のジュニアコンクール覇者にもなったが、13歳で訪れた母の死が原因で7年間ステージから去っていた栄伝亜夜。〈ララバイ〉つまり子守歌の章は、妻も子供もいる勤め人にして応募規定ギリギリの28歳、高島明石。そして大本命とばかりに〈ドラムロール〉の章で現れるのが、名門ジュリアード音楽院生で実力は文句なし、勤勉でしかもルックス良しのマサル・C・レヴィ・アナトールだ。
 個性的な主人公たちの中でも風間塵の存在は異例だ。学歴も演奏活動歴も無いのに、晩年弟子はとらなかったはずの世界的音楽家の実は秘蔵っ子で、推薦状まで遺されていたのだ。〈皆さんに、カザマ・ジンをお贈りする。〉〈彼を本物の『ギフト』とするか、それとも『災厄』にしてしまうのかは、皆さん、いや、我々にかかっている。〉という内容。実に思わせぶりな〈前奏曲〉が物語の幕開けだ。
 そして圧巻の演奏シーン。同じものは一つとないその人だけの音色、さらには、努力家だけが感じる喜びや天才にしか見えない風景というピアニストの心にまで肉迫しながら、魂の演奏に興奮したり涙する聴き手の感情にも焦点を当てる。色々な視点を重ねて、音楽だけが与えてくれる高揚、〈「あの瞬間」には完璧な、至高体験と呼ぶしかないような快楽〉を、著者は言葉を尽くして表現する。一曲一曲が圧巻のドラマだ。主人公たちの選曲にも徹底している。フランツ・リストの大曲を一九世紀のグランドロマンに見立てて解釈するマサルや、コンテストではまず使われないエリック・サティを自由曲に選ぶ塵。4人の選曲が音楽家としてのプロフィールにもなり、場面ごとのBGMにもなっている。
 濃密な二週間には別の時間も織り込まれる。参加者たちの「今まで」と「これから」だ。大会にむけて費やしてきた膨大な労力、音楽に夢中だった子供の頃にまで遡る記憶がピアニストたちの頭に去来する。でもこのステージは発表会ではない。才能と才能が刺激しあうことで、今まで気づかなかった新しい目標、苦悩を帳消しにしてくれる「もっと弾きたい」という純粋な理由と出会う場所となる。
 感情を高ぶらせるのはこれだ。主人公たちが刺激しあって才能を開花させ、大会の終わりと同時に音楽の道へと歩み出す姿が、読者にじっとしていられない衝動を与えてくれる。風間塵の推薦文のようにこの本もまた、芸術の世界の厳しさを突きつける〈災厄〉でありながら、夢を追う人の背中を押す〈ギフト〉になる。自身の代表作『夜のピクニック』で〈何かの終わりは、いつだって何かの始まりなのだ〉と書いた著者らしく、『蜜蜂と遠雷』は壮大な「始まりの物語」なのだ。

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

 

『ペルーの異端審問』 フェルナンド・イワサキ(八重樫克彦・八重樫由貴子訳)

ペルーの異端審問

書いた人:横倉浩一 2016年10月書評王
都内の私立男子校で国語を教えてます。大学院時代の専門は近世文学。上田秋成井原西鶴を主に読んでいました。サッカー部・演劇部泡沫顧問。図書館部長。スポーツではNBAとツールドフランス、ボクシングなどを好んで観戦。毎年、徳之島に闘牛を見に行くことを恒例としています。飲みには行くがお酒は飲めない。バツイチ独身。

 

 ローマはパンテオン宮殿のほど近く。賑やかな大通りからやや奥まった場所にジェズ教会はひっそりたたずんでいる。ジェズとは即ちイエズス会。教会の奥にはあの、フランシスコ・ザビエルの小礼拝所がある。注目すべきはガラス一枚隔てたそこに、ザビエルの右手(肘から先)が展示されてるということ。すっかり干からびミイラ化しはいるものの、これが正真正銘あのザビエルの身体の一部だと思うとテンション上がる。即身仏として崇められる高僧の話は日本にもあるが、遺骸をバラバラにして分散させ、各地で信仰を促す縁(よすが)とする発想(ちなみに右手の肘から上はマカオ、耳はリスボン、歯はポルトにあるとか)を目の当たりにして、死体に向ける彼我の意識の違いに驚くオレが、かつていた。がしかし!そんなことで驚いていては甘いのである。

 中世。ペルーはリマに一人の聖人がいた。クリストル・パン・イ・アグア修道士。死後、神はこの者にある作用を及ぼした。検査に立ち会った外科医の報告。〈故人の体は生きているかのごとく健康で(略)陰茎の直立に関しては、過去に多くの遺体と対面してきた外科医の観点から考えても医学的根拠が見当たらず、むしろ神の意志であると見なす〉。奇跡。でもそこ?そこに〈神の意志〉?だがこの直立問題に対し、異論が提出された。〈上半身は神に仕え、下半身はどちらかと言えば罪に向かう傾向がある〉〈直立状態は神の御業どころか、むしろ(略)罪人達にありがちな、死してまでも神を冒瀆する行為を彷彿させる〉。神の意志か。冒瀆か。厄介なこの問題はしかし意外なところから証言がもたらされ、あっけなく解決の運びに。長年死刑囚の埋葬に携わってきた慈悲深き修道女の言。彼女によれば、死刑囚にも死後、陰茎の硬直は見られるものの、その陰茎は〈異臭を放つ例がほとんどだ〉。だがアグアのそれは〈甘い香りを放ち、本来の色つやも弾力性も損なわれなかった〉とか。この証言に高名な女子修道院の院長がお墨付きを与えたことで、直立問題は〈神の御業〉と認定された。めでたし。めでたし。

 これは実際の裁判記録をもとネタに持つ短編が十七話収められた『ペルーの異端審問』のエピソードの一つ。「高徳の誉れ」と題されたこの小話にはまだ後日談が存在する。五年後アグアの遺体が墓から掘り起こされた時、例のお墨付きを与えた院長がいた女子修道院が遺体から例の〈モノ〉を〈聖遺物として持ち帰った〉というのだ。嗚呼、切り取られたその〈聖遺物〉。今もどこかでザビエルの右手みたいに善男善女を導く縁となっているのだろうか。

 他にも、悪魔に陵辱されている女に欲情して悪魔を上回る快楽をその女に与え、悪魔から嫉妬される神父や、修道服を着て修道士になりすますことでまんまと多くの女をものにしてきたコスプレ男の話、聖職者を誘惑して宗派ごとの精液をコレクションしてはそれを素材に妖しげな料理を作る女や、天国の席をチケットぴあよろしくグレード別にして値段を分けて売りさばいては大儲けした修道士の話など、タブーを破って神を冒瀆するにもほどがある人間たちの姿を活写して笑いを誘う話が次々登場する。しかもこれが全て資料にもとづく実話だというから驚きだ。

〈僕はこの街の底にたまった宗教的な沈殿物を一掃し、敬虔なイメージを払拭する〉

リマ出身で現在はスペイン在住の作家フェルナンド・イワサキがそう宣言して1994年に上梓された本作は、96年・97年・07年とマイナーチェンジを繰り返しながら版を重ねている。96年版からは文豪マリオ・バルガス・リョサによる構成の巧みさを評価する序文が付され、今回邦訳が出るに当たっては、筒井康隆が各編の終わり数行の切れ味の冴えを絶賛する巻頭言を寄せている。必ず最後にオチが来てクスリとさせられる、落語にも似た日本人になじみの艶笑小説としても味わえる傑作小咄集だ。

 

ペルーの異端審問

ペルーの異端審問

 

 

『パルプ』チャールズ・ブコウスキー(筑摩書房、柴田元幸訳)

パルプ (ちくま文庫)

書いた人:長瀬海(ながせ・かい)2016年9月書評王
ライター・書評家(これまでの仕事リスト → http://nagasekai.tumblr.com)。
ツイッターID: @LongSea 
メールアドレス:nagase0902アットマークgmail.com

 

 

 ニューヨークの古本屋では、店主が腕利きであればあるほど、棚にポール・オースターチャールズ・ブコウスキーの作品が並んでいない。それは品揃えが悪いということではなくて、盗難防止のためにカウンターの下に隠してあるからだ。前者は一番売れ行きが良いため。後者は、いまだ衰えることのないその狂信的な人気と、ブコウスキーを愛する者の懐の貧しさゆえ。そんなことを以前、翻訳家の柴田元幸がどこかで書いていた。

 今やブコウスキーは、酒とセックスに溺れながらも、ドライでシニカルな視線を人間そのものあるいは彼じしんに向け続けた作家として知られている。けれども、その作品のふしぶしには極上のユーモアが込められていて、人間が生きる社会の愚かさをこそ描いたが、ビートニクの小説家たちのように、そこに新たな物語をぶつけて「抵抗」することを作家としての至上命題としなかった。父親からの虐待の日々、友情とは無縁だった孤独な少年期を描いた『くそったれ! 少年時代』。セックス、ドラッグ、喧嘩の毎日に明け暮れる飲んだくれの主人公たちを通じて、生の脆さ、死の軽薄さを描いた短編集『町でいちばんの美女』。彼は、あくまでも、ドヤ街のうらびれた路地裏で完結するような敗北の物語を描き続けたのだった。

 さて、『パルプ』はブコウスキーが遺した最後の長編小説だ。カリフォルニアのある街に事務所を構える探偵、ニック・ビレーンのもとへ一本の電話がかかってくる。「セリーヌをつかまえてほしいのよ」そう、『夜の果てへの旅』で名を馳せ、1960年代半ばに没したフランスの小説家、セリーヌである。依頼人は死の貴婦人と名乗る、とびっきりの美女。彼女に命じられるままに街の古本屋へ向かうと……いた、セリーヌが! そんな謎めいた事件(?)を皮切りに、ニックのもとに次々とヘンテコな依頼が舞い込んでくる。赤い雀を捕まえてくれ、自分につきまとう宇宙人をどうにかしてくれ、挙げ句の果てには、今度はセリーヌから死の貴婦人の正体を突き止めろと言われる始末。ニックの日常が、いや、人生そのものが狂気の渦に巻き込まれていく。

 さらに追い討ちをかけるように、ニックの事務所には日夜、不穏なノックの音が鳴り響く。滞納している家賃を催促する大家、ギャンブルで積み重ねた借金の取り立て屋、赤い雀の正体を知るというペテン師たち。絶望的な状況に追い込まれながらも、しかし、ニックは勇敢に立ち向かっていく。その先にあるのがたとえ、敗北でも。

 「雨(レイン)はもう止んでいたが、痛み(ペイン)はまだ残っていた。それに、肌寒くなってきて、何もかも、濡れた屁みたいな匂いがした」

 ニックは孤独だ。長年付き添った奥さんにも逃げられ、部屋でひとり安酒を飲んではグラスを壁に叩きつけている。「濡れた屁みたいな匂い」のする彼の生き様を、しかし、ブコウスキーは哀しいものとして描かない。彼はニックの後ろ姿を、永遠の負け犬という極めて無様で滑稽なものとして腹を抱えて笑ってやってくれと言わんばかりに描き上げるのだ。

 それもこれも著者の人生観がニックの上に投影されているからだろう。今年の七月に邦訳が刊行されたばかりのブコウスキーの未公開作品集『ワインの染みがついたノートからの断片』のなかに、常に勝者たらんとしたヘミングウェイに向かって次のように書いた文章がある。「アーネストは間違って理解していた。人は負けるために生まれてきたのだ。(中略)人は敗北し、打ち砕かれ、負けて、負けて、負けて、叩き潰されるのだ。」

 負け犬の美学。いや、負け犬に美学なんてものはない。あるのは怒りと、惨めさと、そんなおのれを笑える勇気だけだ。ニックは言う。「今日はツキがない。今週はツキがない。今月は。今年は。この人生は。ふん。」時を経ても錆びつくことのない負け犬の物語を読んで、ぜひとも腹を抱えて笑ってやってほしい。

 

パルプ (ちくま文庫)

パルプ (ちくま文庫)

 

 

『センチメンタルな旅』荒木経惟(河出書房新社)

センチメンタルな旅

書いた人:三星円(みほしまどか) 2016年8月書評王
シングルマザーの三振法務博士。昼は会社員、夜はときどきコラムや書評を書いています。
三星 円 (@mihoshi_m) | Twitter
ブログ:http://www.mihoshiblog.com/

 

ぬらりとした昏い水面に浮かぶ簡素な木の舟。
舟床に敷かれたゴザの上で女の人がひとり、身体を丸めて横たわっている。 
女の人は目を閉じている。眠っているのか、狸寝入りなのか。
それとも死んでいるのか。
ギンガムチェックフレアスカートがふわりと彼女の足を覆い、見えるのはつま先だけ。
チェックの色は何色かわからない。白と黒の濃淡だけでその写真は表現されている。


 荒木経惟が1971年に1000部限定で自費出版した写真集『センチメンタルな旅』が、2016年3月に河出書房新社からオリジナル版と同じく108枚すべて収めて完全復刻された。日本でも有数の有名写真集のひとつだが、オリジナル版は希少価値から極めて高額な値がつけられ、新潮社から出されている『センチメンタルな旅・冬の旅』にはダイジェスト版しか収められていなかった現状において、完全復刻版の発売は「天才アラーキー」ファンにとって驚きと喜びをもって迎えられた。

 私が荒木経惟の写真を「荒木経惟の写真だ」と認識したのは、美容雑誌『VOCE』に掲載されていた荒木の連載においてだった。数枚の写真と彼のエッセイが見開き2ページで雑誌の後ろの方に載っていた。ぱらぱらと雑誌をめくっていると、女性器が目に飛び込んできた。どきりとしてページを戻すと、それは女性器ではなく薄く開けた女性の目をアップで撮り、縦向きにしたものだった。私はまじまじとその目を見つめた。目の端をふちどるまつ毛は陰毛にしか見えなかった。その横のページにはたしか蘭の花のめしべを大写しにしたものが掲載されており、それもふっと見ると性器にしか見えなかった。女性の目も蘭の花も、もちろん目にしたことはある。ところがカメラでそれらを切り取ることにより、見えているものは同じでも、違う意味を創出できる人がいる。そのことに衝撃を受けた。そしてなにより、それらの写真は美しかった。

 それから荒木経惟の写真展に行くようになり、気に入った写真集があれば購入することもあったが、荒木は写真集の刊行点数がたいへん多いカメラマンであり、私家版も含めると400冊以上の写真集を発表しているので、なかなか全部の写真集を購入することは難しく、私家版も多いのでそもそも手にすることも困難な写真集もたくさんあった。

 復刻版とはいえ、美術展でしか見ることのできなかった『センチメンタルな旅』を手元に置けるのは嬉しい。本書は妻・陽子との4泊5日の新婚旅行を撮ったものである。表紙には結婚式の際に撮ったと思われるスーツ姿の荒木とウェディングドレス姿の陽子を写したワイド版サイズのモノクロ写真が一枚、白い和紙張りの装丁のなかに収まっている。表紙をめくると、「私写真家宣言」が序文として手書きで書かれている。

〈これはそこいらの嘘写真とはちがいます.この「センチメンタルな旅」は私の愛であり写真家決心なのです.自分の新婚旅行を撮影したから直実写真だぞ!といっているのではありません.写真家としての出発点を愛にし、たまたま私小説からはじまったにすぎないのです.もっとも私の場合ずーっと私小説になると思います.私小説こそ最も写真に近いと思っているからです.〉

 カメラマンとしてデビューして間もない45年前に書かれたものだが、昨日荒木が書いたと言われても信じてしまいそうなほど一貫した態度に驚く。さらにページをめくると、ものうげな様子で電車の椅子に座る陽子、裸でホテルのベッドに座り煙草を吸う陽子、京都や福岡の街の風景が続き、おそらく荒木の写真のなかでももっとも有名な柳川の川下りの舟のなかで丸まって眠る陽子の写真が現れる。最後の方には荒木とセックスする陽子の姿がそのまま写し出されている。陽子と荒木の信頼関係に胸を打たれる。これは確かに私小説だ。