書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

『パルプ』チャールズ・ブコウスキー(筑摩書房、柴田元幸訳)

パルプ (ちくま文庫)

書いた人:長瀬海(ながせ・かい)2016年9月書評王
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 ニューヨークの古本屋では、店主が腕利きであればあるほど、棚にポール・オースターチャールズ・ブコウスキーの作品が並んでいない。それは品揃えが悪いということではなくて、盗難防止のためにカウンターの下に隠してあるからだ。前者は一番売れ行きが良いため。後者は、いまだ衰えることのないその狂信的な人気と、ブコウスキーを愛する者の懐の貧しさゆえ。そんなことを以前、翻訳家の柴田元幸がどこかで書いていた。

 今やブコウスキーは、酒とセックスに溺れながらも、ドライでシニカルな視線を人間そのものあるいは彼じしんに向け続けた作家として知られている。けれども、その作品のふしぶしには極上のユーモアが込められていて、人間が生きる社会の愚かさをこそ描いたが、ビートニクの小説家たちのように、そこに新たな物語をぶつけて「抵抗」することを作家としての至上命題としなかった。父親からの虐待の日々、友情とは無縁だった孤独な少年期を描いた『くそったれ! 少年時代』。セックス、ドラッグ、喧嘩の毎日に明け暮れる飲んだくれの主人公たちを通じて、生の脆さ、死の軽薄さを描いた短編集『町でいちばんの美女』。彼は、あくまでも、ドヤ街のうらびれた路地裏で完結するような敗北の物語を描き続けたのだった。

 さて、『パルプ』はブコウスキーが遺した最後の長編小説だ。カリフォルニアのある街に事務所を構える探偵、ニック・ビレーンのもとへ一本の電話がかかってくる。「セリーヌをつかまえてほしいのよ」そう、『夜の果てへの旅』で名を馳せ、1960年代半ばに没したフランスの小説家、セリーヌである。依頼人は死の貴婦人と名乗る、とびっきりの美女。彼女に命じられるままに街の古本屋へ向かうと……いた、セリーヌが! そんな謎めいた事件(?)を皮切りに、ニックのもとに次々とヘンテコな依頼が舞い込んでくる。赤い雀を捕まえてくれ、自分につきまとう宇宙人をどうにかしてくれ、挙げ句の果てには、今度はセリーヌから死の貴婦人の正体を突き止めろと言われる始末。ニックの日常が、いや、人生そのものが狂気の渦に巻き込まれていく。

 さらに追い討ちをかけるように、ニックの事務所には日夜、不穏なノックの音が鳴り響く。滞納している家賃を催促する大家、ギャンブルで積み重ねた借金の取り立て屋、赤い雀の正体を知るというペテン師たち。絶望的な状況に追い込まれながらも、しかし、ニックは勇敢に立ち向かっていく。その先にあるのがたとえ、敗北でも。

 「雨(レイン)はもう止んでいたが、痛み(ペイン)はまだ残っていた。それに、肌寒くなってきて、何もかも、濡れた屁みたいな匂いがした」

 ニックは孤独だ。長年付き添った奥さんにも逃げられ、部屋でひとり安酒を飲んではグラスを壁に叩きつけている。「濡れた屁みたいな匂い」のする彼の生き様を、しかし、ブコウスキーは哀しいものとして描かない。彼はニックの後ろ姿を、永遠の負け犬という極めて無様で滑稽なものとして腹を抱えて笑ってやってくれと言わんばかりに描き上げるのだ。

 それもこれも著者の人生観がニックの上に投影されているからだろう。今年の七月に邦訳が刊行されたばかりのブコウスキーの未公開作品集『ワインの染みがついたノートからの断片』のなかに、常に勝者たらんとしたヘミングウェイに向かって次のように書いた文章がある。「アーネストは間違って理解していた。人は負けるために生まれてきたのだ。(中略)人は敗北し、打ち砕かれ、負けて、負けて、負けて、叩き潰されるのだ。」

 負け犬の美学。いや、負け犬に美学なんてものはない。あるのは怒りと、惨めさと、そんなおのれを笑える勇気だけだ。ニックは言う。「今日はツキがない。今週はツキがない。今月は。今年は。この人生は。ふん。」時を経ても錆びつくことのない負け犬の物語を読んで、ぜひとも腹を抱えて笑ってやってほしい。

 

パルプ (ちくま文庫)

パルプ (ちくま文庫)

 

 

『センチメンタルな旅』荒木経惟(河出書房新社)

センチメンタルな旅

書いた人:三星円(みほしまどか) 2016年8月書評王
シングルマザーの三振法務博士。昼は会社員、夜はときどきコラムや書評を書いています。
三星 円 (@mihoshi_m) | Twitter
ブログ:http://www.mihoshiblog.com/

 

ぬらりとした昏い水面に浮かぶ簡素な木の舟。
舟床に敷かれたゴザの上で女の人がひとり、身体を丸めて横たわっている。 
女の人は目を閉じている。眠っているのか、狸寝入りなのか。
それとも死んでいるのか。
ギンガムチェックフレアスカートがふわりと彼女の足を覆い、見えるのはつま先だけ。
チェックの色は何色かわからない。白と黒の濃淡だけでその写真は表現されている。


 荒木経惟が1971年に1000部限定で自費出版した写真集『センチメンタルな旅』が、2016年3月に河出書房新社からオリジナル版と同じく108枚すべて収めて完全復刻された。日本でも有数の有名写真集のひとつだが、オリジナル版は希少価値から極めて高額な値がつけられ、新潮社から出されている『センチメンタルな旅・冬の旅』にはダイジェスト版しか収められていなかった現状において、完全復刻版の発売は「天才アラーキー」ファンにとって驚きと喜びをもって迎えられた。

 私が荒木経惟の写真を「荒木経惟の写真だ」と認識したのは、美容雑誌『VOCE』に掲載されていた荒木の連載においてだった。数枚の写真と彼のエッセイが見開き2ページで雑誌の後ろの方に載っていた。ぱらぱらと雑誌をめくっていると、女性器が目に飛び込んできた。どきりとしてページを戻すと、それは女性器ではなく薄く開けた女性の目をアップで撮り、縦向きにしたものだった。私はまじまじとその目を見つめた。目の端をふちどるまつ毛は陰毛にしか見えなかった。その横のページにはたしか蘭の花のめしべを大写しにしたものが掲載されており、それもふっと見ると性器にしか見えなかった。女性の目も蘭の花も、もちろん目にしたことはある。ところがカメラでそれらを切り取ることにより、見えているものは同じでも、違う意味を創出できる人がいる。そのことに衝撃を受けた。そしてなにより、それらの写真は美しかった。

 それから荒木経惟の写真展に行くようになり、気に入った写真集があれば購入することもあったが、荒木は写真集の刊行点数がたいへん多いカメラマンであり、私家版も含めると400冊以上の写真集を発表しているので、なかなか全部の写真集を購入することは難しく、私家版も多いのでそもそも手にすることも困難な写真集もたくさんあった。

 復刻版とはいえ、美術展でしか見ることのできなかった『センチメンタルな旅』を手元に置けるのは嬉しい。本書は妻・陽子との4泊5日の新婚旅行を撮ったものである。表紙には結婚式の際に撮ったと思われるスーツ姿の荒木とウェディングドレス姿の陽子を写したワイド版サイズのモノクロ写真が一枚、白い和紙張りの装丁のなかに収まっている。表紙をめくると、「私写真家宣言」が序文として手書きで書かれている。

〈これはそこいらの嘘写真とはちがいます.この「センチメンタルな旅」は私の愛であり写真家決心なのです.自分の新婚旅行を撮影したから直実写真だぞ!といっているのではありません.写真家としての出発点を愛にし、たまたま私小説からはじまったにすぎないのです.もっとも私の場合ずーっと私小説になると思います.私小説こそ最も写真に近いと思っているからです.〉

 カメラマンとしてデビューして間もない45年前に書かれたものだが、昨日荒木が書いたと言われても信じてしまいそうなほど一貫した態度に驚く。さらにページをめくると、ものうげな様子で電車の椅子に座る陽子、裸でホテルのベッドに座り煙草を吸う陽子、京都や福岡の街の風景が続き、おそらく荒木の写真のなかでももっとも有名な柳川の川下りの舟のなかで丸まって眠る陽子の写真が現れる。最後の方には荒木とセックスする陽子の姿がそのまま写し出されている。陽子と荒木の信頼関係に胸を打たれる。これは確かに私小説だ。

『魔法の夜』スティーブン・ミルハウザー(白水社)

魔法の夜

書いた人:瀧源舞(たきもとまい) 2016年7月書評王
普通の会社員。小さい頃に従姉から借りたままの小説をまだ持っているほど、本は大事に扱うようにしている。パクチーはシャンツァイもしくはコリアンダーと呼びたい。

 

 night、Nacht、gece、notte、noche、aften、nox、nuit、そして夜。
 “夜”を表わす単語は国によってそれぞれで、どれもが似てはいるけれど違う響きを持っている。想起されるイメージは、個人の体験や記憶によって異なるだろう。けれど、本書に書かれている“夜”は、時代や土地を問わず、だれもが「あぁ、これは知っている」と錯覚するのではないか。自分の中には存在しないかもしれない夜を、物語の中に見てしまう。それは、夏の夜という舞台装置が持つ作用によるものなのか、それともミルハウザー流の魔法なのか。

 時刻は真夜中すぎ。いまだ眠りにつこうとしない者がいる。何かに突き動かされるように部屋を飛び出す14歳のローラ。窓辺で膝をつき約束した誰かを待つジャネット。あまり見込みのない小説を一人きりで書き続けるハヴァストロー。桃色のドレスをまとってショーウィンドウの中で憂鬱を持て余すマネキンと彼女に恋する車体工場士のクープ。月明かりが差し込む屋根裏部屋で動き出すほこりをかぶった人形たち。音もなく家に押し入り、冷蔵庫マグネットや眼鏡ケースなどささいなものを盗んでは「私たちはあなた方の娘です」という置手紙を残していく女子高生の窃盗団。彼らの身に起こるエピソードが少しだけ重なり合いながら、夜は更けていく。

 舞台は米コネチカットらしいが、町の全体像はよくわからない。ミルハウザーの描く場所は、地名が書かれていても、いつも、どこにもない場所のように感じられる。線路の上に立つ黒い鉄の跨線信号台、メインストリートにある百貨店。色づく前のサトウカエデの木々。恋人たちと独り者しかいなくなった浜辺。彼らと一緒にそこここを歩くうちに、それほど大きくはない町を発見していく。

 時折、そんな彼らを眺めているような存在を感じる。月光の描写が繰り返し出てくることから、正体は月かと思ったが、そうでもなさそうだ。なぜなら中盤以降、月の女神もまた庭で眠り込む少年の横顔に魅せられ、地上に降りてきてしまうからだ。では、小説の創造主である作者・ミルハウザーの視点かというとそうでもない。三人称がもたらす効果だけではなく、登場人物を見ている別の視点があるように思えるのだが、どうもはっきりしない。

 時間の流れ方も不思議だ。作中の出来事は現在進行形で語られているはずなのに、登場人物の何人かは、かつてあった一瞬を思いだしているような感覚に捉われ、記憶が揺れる。まるで今夜のこの瞬間だけが、連続する時間からはぐれてしまったかのようだ。肌に触れるあたたかい夜風まで感じ取れるような描写とともに、そうした感覚のゆらぎが、それとは気づかない程度に挿入されている。

 これまでのところ、ミルハウザー作品のほとんどは、彼に惚れ込んだ柴田元幸によって翻訳されている。英米文学に関する広い知識と深い洞察はもちろん、作家への親愛の情がにじむ訳者解説は、作品世界への最適な導き手だ。初期に書かれた短編集『イン・ザ・ペニー・アーケード』の解説によると、ミルハウザーの描く人物は、誰もが退屈しているという。<現実に対する、自分がいまここにあることに対する異議申し立てとしての退屈〉を抱えているという。たしかに本書に出てくる人々もまた、くまなく全身を退屈に覆われながら、夜が与えてくれる変化に焦がれている。

 ミルハウザーが描く人物には、芸術家や職人、子供が多い。そしてしばしば、自分を魅了するものを追い求めるうちに、あちら側の世界へ行きかける。たいていの場合、それが大人であればあちらへ行ったままで、子供であればこちらに戻ってくる。その意味では本書に出てくる者たちは、年齢に関係なく子供に近いのかもしれない。あともう少しで、夜はその座を朝に明け渡すだろうから。

 しかし夜は明けても話は“おしまい”にはならない。どういうわけか、ミルハウザーの書く物語は、その後に起こるであろう変容の方が気にかかってしまうのである。

魔法の夜

魔法の夜

 

 

『ギケイキ』町田康(河出書房新社)

ギケイキ:千年の流転

書いた人:豊﨑由美(とよざきゆみ)またの名をトヨザキ社長  2016年6月書評王
1961年愛知県生。東洋大学印度哲学科卒業後、編集プロダクション勤務を経てフリーに。「GINZA」「TV Bros.」など多くの雑誌に連載を持つライター・書評家。著書は、『そんなに読んで、どうするの?』(アスペクト)、『ニッポンの書評』(光文社新書)など多数。共著書に大森望との『文学賞メッタ斬り!』(ちくま文庫 Kindle)、岡野宏文との『百年の誤読』(ちくま文庫 Kindle)など。

 

〈かつてハルク・ホーガンという人気レスラーが居たが私など、その名を聞くたびにハルク判官と瞬間的に頭の中で変換してしまう〉〈あ、そうなんだ。え、マジ? すごーい。を順番に言って気のない風を装っていたのだけれども、〉〈ちょっと前、人と東銀座のなんということはない喫茶店に入ったところ、一緒にいた人が、この席はジョン・レノンが座った席らしいです、と声をひそめて言っていたが、まあ、そんなようなものだ〉  

 こんなことを喋っているのは誰なのか。そこらでウンコ座りしているアンちゃんではない。源義経なのである。正確を期するなら、義経の魂の依り代となった作家、町田康なのである。と聞けば、世の時代小説家の多くは「そんな現代語を、中世日本に生きた義経が使うのはおかしい」と非難するだろうが、なんということはない、連中の採用している文体だって「なんちゃって雰囲気時代小説語」にすぎないのである。先輩作家が作った時代小説における暗黙の約束事に何の疑問も抱かず、ただ「ござるござる」と従っているにすぎないのでござる。

 一人の浪人侍を狂言回しにして、黒和藩内の権力闘争を背景に、〈腹ふり党〉という奇天烈な宗教団体の蔓延と叛乱を描き、〈生き腐れみたいな人間〉と猿軍団が阿鼻叫喚地獄めいた殺戮党争に突入するハチャメチャな物語になっているばかりか、ジャンル内のお約束をことごとく無視する自由奔放な語り口によって、世の時代小説ファンを「ぎゃっ」と白眼をむいて卒倒させた『パンク侍、斬られて候』(2004年)のデストロイヤーぶりも凄まじかったけれど、記憶に新しいのは、河出書房新社から刊行されている日本文学全集に収められた『宇治拾遺物語』における抱腹絶倒の現代語訳。それまで古典とは縁もゆかりもなかった衆生を熱狂させ、これが入っている巻だけ異様な売上げを示すことに貢献したのだ。この仕事のおかげで中世日本の混沌と自分の思考の波長が合うことを発見したのか、史伝物語『義経記』の語り直しに着手したのが、冒頭で引用文を挙げた『ギケイキ 千年の流転』なのである。

「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」を開いた源頼朝の腹違いの弟である義経の、生まれと育ち、思考と嗜好、性格と容貌、平家討伐に向けての無謀だったり無邪気だったりしすぎる行動の数々、忠実な家臣となる武蔵坊弁慶の生い立ちと出会いを、読めば大笑い必至の饒舌かつスピーディな文体で語りまくる。

〈思えば私の後年の功績はすべて尋常でない速力に追うところが大きかったがこの時点で既に私は速かった。もう少し遅ければ長生きできただろうか、速いということは、普通の速度に生きる者にとってはそれだけで脅威。それだけで罪。けれども私にとってはおまえらのその遅さこそがスローモーションの劫罰、業苦〉と語る速力命の人。〈京都が長い私の父が若い頃、関東に拠点を築くことができたのは、もちろん武芸や気合、といった要素も大きいが、多分にファッションによるところも大きい〉と考えるおしゃれ上等の人。〈返す刀で首のあたりを薙ぐと、ストトトトン、首が切れて飛んで、由利太郎は故郷である東の方に倒れた。そのとき由利太郎は二十七歳だった。若いよね〉と言い放つ非情の人。日本史上指折りのアイドルの速くて濃いぃ人生を、その魂を内に宿した町田康が一人称スタイルで駆け抜ける。面白くないはずが、ない。

〈やっと会える。やっと兄に会える〉、物語は、遂に挙兵した兄頼朝にもうすぐで合流するところで終わっている。完成まで全4巻を予定しているこの物語の続きが、もう読みたい、すぐに読みたいと、読者もまた速力の権化と化してしまう、そんな面白と痛快の塊のような一冊なのだ。「義経は私だ」と町田康が言い切るなら深くうなずくより他にない、そんな説得力に圧倒される傑作小説なのである。 

ギケイキ:千年の流転

ギケイキ:千年の流転

 

 


 

矢口真里さんへ薦めたい3冊

書いた人:林亮子 2016年5月書評王

1999年冬、今は無きコンビニam/pmの店内で、ポスターの中の、その意志の強そうな眼差しにくぎづけになって以来ずっと矢口真里さんファンです。努力家で、頭の回転が早くて、自分をしっかり持っていて、笑顔が素敵で……尊敬する点は挙げればきりがありません。憧れの矢口さんに対して書いた書評で書評王を獲ることができ、望外の幸せです。
この書評王ブログを通して、あわよくば、矢口さんご本人に拙評が届けばいいな~、なんて。

  

  敬愛なる矢口真里さま。

 かつての不倫騒動から早3年。最近ではテレビやネット番組でお姿を拝見する機会も多くなり、ファンとしては嬉しい限りです。しかしそんな折、せっかく出演された日清のCMがクレームにより放映中止になり、憤りを隠せません。何かというと有名人の言動を叩き自粛に持ち込む昨今の風潮、いかがなものでしょう。矢口さんはテレビのインタビューやブログでよく「世間の皆さまに申し訳ない」「どうすれば皆さまに許していただけるのか、そればかり考えている」と仰います。しかし、私には分かります。あなたは、「世間に対して申し訳ない」などとは蚤の糞ほども思っていないはずです。良いのです。それが正しいのです。是非ご自身の考えに自信を持っていただきたく、次の3冊をご紹介致します。

 三島由紀夫『不道徳教育講座』は、〈鼻持ちならない平和主義的偽善を打破するために〉三島が書いた実に愉快痛快な70編のエッセイ集です。本作が書かれたのは昭和33年(1958年)と、今から60年近くも前ですが、決して古くさいなどと思わないでください。当時の帯文からして〈偽善に満ち満ちた現代を痛烈な逆説と揶揄の言葉で切りまくる〉ですよ。今の世の中にも通用するものがあると思いませんか。例えば「醜聞を利用すべし」「沢山の悪徳を持て」「人のふり見てわがふり直すな」「恋人を交換すべし」など、タイトルだけ見れば一瞬目を疑うようなものばかりですが、結局三島は、人間のどうしようもない情けなさ、それが故の愛おしさ、そこにユーモアを見出して楽しむことを本作で説いているのです。物事を表面だけで機械的に判断し、批判する“偽善”を容赦なく斬っていくので、きっと快感を覚えていただけるはずです。

不道徳教育講座 (角川文庫)

不道徳教育講座 (角川文庫)

 

  偽善といえば、宗教というベールに包まれた偽善と疑念により断罪されてしまったのが、『緋文字』(ホーソーン)の主人公、ヘスターです。厳格な清教徒が住む町、ニューイングランド。ヘスターは不義により子を産んだことにより、絞首刑こそ免れたものの鮮やかな緋色で刺繍した「A」の文字を胸につけることを強制されます。海外古典作品なので清教徒とかニューイングランドとか聖書の教えとか出てきますが、ひるまないでください。本作で描かれるのは、“不倫は罪か否か”ではなく、ヘスター、夫、不倫相手、ヘスターを罵る町民、みんなどっちもどっちのお互いさまということなのです。「A」の緋文字は、一度の不祥事のレッテルが一生つきまとう現代のタレントに通ずるものがあるかもしれません。

緋文字 (光文社古典新訳文庫)

緋文字 (光文社古典新訳文庫)

 

  有吉佐和子『悪女について』は、富小路公子(とみのこうじ・きみこ)という女性実業家の謎の死をめぐって、27人の人物がそれぞれ一人称で証言するという構成の作品です。作品の時代背景は終戦後の昭和ですが、モーニング娘。脱退後もタレントとしてマルチに活躍し、俳優の小栗旬川久保拓司中村昌也、モデルの梅田賢三などなど、いずれも長身のイケメンばかりを手玉にとり、それでいて決して男に溺れず自分を見失うことのない矢口さんの姿が公子と重なります。公子に翻弄された27人が皆口を揃えて“あの愛に溢れた心の美しい公子が悪女だなんてことがあるはずがない”と言うところが不気味で面白い。公子は生涯で2人の男の子を産むのですが、その父親が誰であるかについて証言者ごとに事実が違うのです。我こそが父親だという男たちが“自分が公子を抱いたとき、あの子は絶対に処女だった”と口々に言うところが笑えます。本作のミソは、当の公子は語り手として一切登場しないということ。結局、虚像なんて人によって幾種類も作られてしまうし、本当の姿なんて誰にも分からないのです。

悪女について (新潮文庫 (あ-5-19))

悪女について (新潮文庫 (あ-5-19))

 

  矢口さんも、とりあえず表向きは「世間の皆さまに申し訳が云々」と言っておいて、しれっと芸能界でのし上がっていけばいいと思うのです。それだけの芯の強さがあなたにはおありになるのだから。

『ミスター・ホームズ名探偵最後の事件』ミッチ・カリン(駒月雅子訳 角川書店)

ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件

書いた人:横倉浩一 2016年4月書評王
都内の私立男子校で国語を教えてます。大学院時代の専門は近世文学。上田秋成井原西鶴を主に読んでいました。サッカー部・演劇部泡沫顧問。図書館部長。スポーツではNBAとツールドフランス、ボクシングなどを好んで観戦。毎年、徳之島に闘牛を見に行くことを恒例としています。飲みには行くがお酒は飲めない。バツイチ独身。

 

 『ミスター・ホームズ』は言うまでもなくシャーロックホームズパスティーシュ作品の一つだ。ただし本作の主人公は、大ヒットしたカンバーバッチ版ホームズのようなスタイリッシュで都会的な華麗さとは対極にある。いつも不安や後悔の念にさいなまれ、迷ったりぼんやりしたりめそめそしたりと、およそ華麗とはほど遠い。それでもカリン・ホームズが老舗ファン団体〈ベイカー・ストリート・イレギュラーズ〉会長はじめ、多くのシャーロック愛好家たちに受け入れられたのは、その秀逸な構成と設定のゆえだろう。ここでのホームズは、事件簿を書いた相棒ワトソンや挿絵画家のねつ造によって巷間に流布している《虚像》、いわゆる快刀乱麻のヒーロー像や「パイプに鳥打ち帽」の名探偵像にむしろ「やれやれ」と辟易している老境の男として登場する。その言動には愛好家たちをして「《本物》のホームズってこんな感じだったかも?」なんて思わしめるリアリティがある。むろん「ホームズなんて、もともと実在しないから!」なんてツッコミは無しだ。

 この物語には三つの世界が存在し、時に連想の糸で繋がりながら同時進行する。

 一つはこの小説の基調をなす1947年のパート。とうに探偵業を引退した93歳のホームズがサセックス州の田舎で養蜂業を営んでいる。家政婦マンロー夫人とその子ロジャーとの三人暮らし。ホームズは利発なロジャーを自分の孫のように愛している。該博な知識と観察力で多くの難局を乗り切ってきた知性も翳りを見せ、そのことに怯えるホームズは老化防止に効果ありとされるローヤルゼリーに執着する。

 二つ目はロジャー達との日常の中で回想される、戻ってきたばかりの日本への旅のパート。これまた老化防止効果が望める植物・サンショウについて意見交換し親交を深めてきたウメザキの招待を受け、敗戦の傷跡も生々しい日本をはるばる訪れた。ウメザキの住む神戸からサンショウの自生する下関までの旅の過程で、ホームズは次第にウメザキが自分を日本に招いた真の目的に気付いていく。それはウメザキの父の喪失にまつわる、悲劇的な因縁ともいえるものであった。

 第三のパートはホームズが語り手となって1902年の事件を自ら書き記した体裁をとる『グラス・アルモニカの事件』。二人の子を続けて流産し、悲しみにくれる若妻アン。その心を癒すため、夫のケラーはグラス・アルモニカなる楽器の演奏を彼女に勧める。しかしそのアルモニカ熱は次第に歯止めの利かぬものとなり、やがては演奏を通して死んだ子供と感応し、霊的交流にふけるところまで昂じてしまう。見かねた夫は強引に妻から楽器演奏の機会を取り上げる。だがその後も妻は音楽家のもとに密かに通っているのではないかと疑ったケラーは、アンの調査を依頼すべくホームズのもとを訪れた。当初それは何の変哲もない〈平凡な案件〉と思われた。しかし予想に反してホームズの人生はこのアンとの出会いを機に大きく歪められることとなる。まさにアンはホームズにとってのファムファタル=運命の女であった。

 喪失の痛みがそこには描かれている。前半おもに描かれるのは《自分》を失う痛み。〈それはただの滑稽な話では済まされない、ぞっとするほど恐ろしいことなのだ〉。ずっと自分を支えてきた知性、その基盤をなす記憶力を失う不安・恐怖はいかばかりのものか。《あの》ホームズだからこそ真底〈ぞっとする〉のだ。そして物語が後半に進むにしたがって浮上してくるのは《誰か》を失う痛みだ。ロジャーが父を、アンが未生の子を、ウメザキが父を失った悲しみ・痛みが真に迫ってホームズに、あるいは私たち読者に実感されるまで、物語の後半を待たねばならない。失うとはこんなにも痛いことなのだ、そして失ってなお生き続ける意味を見いだすことは、〈平凡〉でも何でも無く、こんなにも困難なことなのだと、ミッチ・カリンの容赦ない物語が私たちに思い知らせてくれるはずだ。

 

ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件

ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件

 

 

ムツゴロウさんにおすすめしたい3冊

書いた人:藤井勉 2016年4月書評王
会社員、共著に『村上春樹を音楽で読み解く』(日本文芸社)。
「エキレビ!」でレビューを書いております。
http://www.excite.co.jp/News/review/author/kawaibuchou/

 

 ムツゴロウさん、はじめまして!1月29日の毎日新聞に掲載されたインタビュー、読みました。〈熊とか馬とかを命がかかっちゃうくらい愛するんです。だけど70を超えたころから、ふーっとなくなったんですね〉という発言にはびっくりしました。原因は不明とのことですが、解明したくはありませんか?
 飴屋法水という人がいます。2014年に『ブルーシート』で岸田國士戯曲賞を受賞した劇作家・演出家にして、現代美術、パフォーマンスライブなど活動は多岐に渡ります。1995年から2003年には、珍獣専門のペットショップ「動物堂」を開いていたこともありました。当時の経験をもとに動物の飼い方を指南するエッセイ『キミは珍獣(ケダモノ)と暮らせるか?』(文春文庫PLUS)は、今のムツゴロウさんにとって興味深い内容のはずです。飴屋は本書で、動物の飼育がいかに無駄な行為かを読者に説きます。たとえば、「動物は純粋」という世間の幻想に、〈自らの食欲、性欲に対して、貪欲なまでに純粋。(略)自分にウソをつかないだけで、他人のことはダマシますよ、ヤツら〉と警告を鳴らします。安易に動物を飼おうとする人には、〈別にそんなに楽しくない(略)飼っていても、毎日は極めて単調な日々なのだ〉と現実を突きつけます。そして、それでも一緒に暮らしたいという得体の知れない欲望こそが「愛」であると定義するのです。動物愛を論理的に語れる彼なら、ムツゴロウさんの気持ちの変化も読み解けるに違いありません。

  ただ、テレビで「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」を見てきた世代としては、動物に夢中であり続けてほしいとも思うのです。熊とか馬にのめり込めないなら、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『幻獣辞典』(柳瀬尚紀訳、河出文庫)があるじゃないかと思うのです。架空の生き物である幻獣を、古今東西の伝説や文学作品から100種類以上も紹介する本書。読めばきっと、愛情を注ぎたくなる幻獣が見つかるはずです。頭が100個ある海の怪物「百頭」に対して、一個一個の頭をなでる内にスタミナ切れを起こすムツゴロウさん。冥界の番犬「ケルベロス」とじゃれ合おうとして、地獄に連れていかれそうになるムツゴロウさん。想像するだけで、ワクワクしてきます。脳内にもムツゴロウ動物王国を建設して、架空の動物とのふれ合いを楽しまれてはいかがでしょうか?

幻獣辞典 (河出文庫)

幻獣辞典 (河出文庫)

 

 でも、今は小説の執筆に夢中とのことで、無理にとは申しません。ブラジルを舞台に、ブラジル人の楽天的な生き方を見習おうと訴える内容だそうですね。でしたら、マリオ・ヂ・アンドラ―ヂの『マクナイーマ―つかみどころのない英雄』(福嶋伸洋訳、松籟社)は押えておくべきでしょう。主人公マクナイーマはブラジルのジャングル奥地で生まれた、3人兄弟の末っ子。〈あぁ!めんどくさ!……〉が口癖で、なぜか英雄と呼ばれています。母の死をきっかけに、兄たちとあてのない旅に出たマクナイーマ。道中、森の神・シーと結婚するも死別し、川で失くした彼女の遺品を探しにサンパウロへ向かうも、女遊びにハマって時間と財産を浪費。サルに騙されて自分の睾丸を叩き潰して死にかけ、兄弟喧嘩でぶつけられたボールを蹴飛ばして、サッカーの始祖にもなります……って、どんな話だ?果たして彼は、本当に英雄なのか?読者の詮索もどこ吹く風と、喜びも悲しみも何もかも〈めんどくさ!〉で片付けてしまうマクナイーマ。その能天気さに、バカ負けすること必至です。そんなブラジル人の国民性を象徴するといわれる主人公とキャラの近い日本人を、私は知っています。ライオンに指を噛まれて中指の第一関節から先を失ったエピソードを、トーク番組で笑い話として語るムツゴロウさん、あなたです。いっそ自伝的小説を書けば、ムツゴロウさんの思い描く作品になりそうな気もします。とにかく、完成を楽しみにしています!

マクナイーマ―つかみどころのない英雄 (創造するラテンアメリカ)

マクナイーマ―つかみどころのない英雄 (創造するラテンアメリカ)