書評王の島

トヨザキ社長こと豊崎由美さんが講師をつとめる書評講座で、書評王に選ばれた原稿を紹介するブログです。

矢口真里さんへ薦めたい3冊

書いた人:林亮子 2016年5月書評王

1999年冬、今は無きコンビニam/pmの店内で、ポスターの中の、その意志の強そうな眼差しにくぎづけになって以来ずっと矢口真里さんファンです。努力家で、頭の回転が早くて、自分をしっかり持っていて、笑顔が素敵で……尊敬する点は挙げればきりがありません。憧れの矢口さんに対して書いた書評で書評王を獲ることができ、望外の幸せです。
この書評王ブログを通して、あわよくば、矢口さんご本人に拙評が届けばいいな~、なんて。

  

  敬愛なる矢口真里さま。

 かつての不倫騒動から早3年。最近ではテレビやネット番組でお姿を拝見する機会も多くなり、ファンとしては嬉しい限りです。しかしそんな折、せっかく出演された日清のCMがクレームにより放映中止になり、憤りを隠せません。何かというと有名人の言動を叩き自粛に持ち込む昨今の風潮、いかがなものでしょう。矢口さんはテレビのインタビューやブログでよく「世間の皆さまに申し訳ない」「どうすれば皆さまに許していただけるのか、そればかり考えている」と仰います。しかし、私には分かります。あなたは、「世間に対して申し訳ない」などとは蚤の糞ほども思っていないはずです。良いのです。それが正しいのです。是非ご自身の考えに自信を持っていただきたく、次の3冊をご紹介致します。

 三島由紀夫『不道徳教育講座』は、〈鼻持ちならない平和主義的偽善を打破するために〉三島が書いた実に愉快痛快な70編のエッセイ集です。本作が書かれたのは昭和33年(1958年)と、今から60年近くも前ですが、決して古くさいなどと思わないでください。当時の帯文からして〈偽善に満ち満ちた現代を痛烈な逆説と揶揄の言葉で切りまくる〉ですよ。今の世の中にも通用するものがあると思いませんか。例えば「醜聞を利用すべし」「沢山の悪徳を持て」「人のふり見てわがふり直すな」「恋人を交換すべし」など、タイトルだけ見れば一瞬目を疑うようなものばかりですが、結局三島は、人間のどうしようもない情けなさ、それが故の愛おしさ、そこにユーモアを見出して楽しむことを本作で説いているのです。物事を表面だけで機械的に判断し、批判する“偽善”を容赦なく斬っていくので、きっと快感を覚えていただけるはずです。

不道徳教育講座 (角川文庫)

不道徳教育講座 (角川文庫)

 

  偽善といえば、宗教というベールに包まれた偽善と疑念により断罪されてしまったのが、『緋文字』(ホーソーン)の主人公、ヘスターです。厳格な清教徒が住む町、ニューイングランド。ヘスターは不義により子を産んだことにより、絞首刑こそ免れたものの鮮やかな緋色で刺繍した「A」の文字を胸につけることを強制されます。海外古典作品なので清教徒とかニューイングランドとか聖書の教えとか出てきますが、ひるまないでください。本作で描かれるのは、“不倫は罪か否か”ではなく、ヘスター、夫、不倫相手、ヘスターを罵る町民、みんなどっちもどっちのお互いさまということなのです。「A」の緋文字は、一度の不祥事のレッテルが一生つきまとう現代のタレントに通ずるものがあるかもしれません。

緋文字 (光文社古典新訳文庫)

緋文字 (光文社古典新訳文庫)

 

  有吉佐和子『悪女について』は、富小路公子(とみのこうじ・きみこ)という女性実業家の謎の死をめぐって、27人の人物がそれぞれ一人称で証言するという構成の作品です。作品の時代背景は終戦後の昭和ですが、モーニング娘。脱退後もタレントとしてマルチに活躍し、俳優の小栗旬川久保拓司中村昌也、モデルの梅田賢三などなど、いずれも長身のイケメンばかりを手玉にとり、それでいて決して男に溺れず自分を見失うことのない矢口さんの姿が公子と重なります。公子に翻弄された27人が皆口を揃えて“あの愛に溢れた心の美しい公子が悪女だなんてことがあるはずがない”と言うところが不気味で面白い。公子は生涯で2人の男の子を産むのですが、その父親が誰であるかについて証言者ごとに事実が違うのです。我こそが父親だという男たちが“自分が公子を抱いたとき、あの子は絶対に処女だった”と口々に言うところが笑えます。本作のミソは、当の公子は語り手として一切登場しないということ。結局、虚像なんて人によって幾種類も作られてしまうし、本当の姿なんて誰にも分からないのです。

悪女について (新潮文庫 (あ-5-19))

悪女について (新潮文庫 (あ-5-19))

 

  矢口さんも、とりあえず表向きは「世間の皆さまに申し訳が云々」と言っておいて、しれっと芸能界でのし上がっていけばいいと思うのです。それだけの芯の強さがあなたにはおありになるのだから。

『ミスター・ホームズ名探偵最後の事件』ミッチ・カリン(駒月雅子訳 角川書店)

ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件

書いた人:横倉浩一 2016年4月書評王
都内の私立男子校で国語を教えてます。大学院時代の専門は近世文学。上田秋成井原西鶴を主に読んでいました。サッカー部・演劇部泡沫顧問。図書館部長。スポーツではNBAとツールドフランス、ボクシングなどを好んで観戦。毎年、徳之島に闘牛を見に行くことを恒例としています。飲みには行くがお酒は飲めない。バツイチ独身。

 

 『ミスター・ホームズ』は言うまでもなくシャーロックホームズパスティーシュ作品の一つだ。ただし本作の主人公は、大ヒットしたカンバーバッチ版ホームズのようなスタイリッシュで都会的な華麗さとは対極にある。いつも不安や後悔の念にさいなまれ、迷ったりぼんやりしたりめそめそしたりと、およそ華麗とはほど遠い。それでもカリン・ホームズが老舗ファン団体〈ベイカー・ストリート・イレギュラーズ〉会長はじめ、多くのシャーロック愛好家たちに受け入れられたのは、その秀逸な構成と設定のゆえだろう。ここでのホームズは、事件簿を書いた相棒ワトソンや挿絵画家のねつ造によって巷間に流布している《虚像》、いわゆる快刀乱麻のヒーロー像や「パイプに鳥打ち帽」の名探偵像にむしろ「やれやれ」と辟易している老境の男として登場する。その言動には愛好家たちをして「《本物》のホームズってこんな感じだったかも?」なんて思わしめるリアリティがある。むろん「ホームズなんて、もともと実在しないから!」なんてツッコミは無しだ。

 この物語には三つの世界が存在し、時に連想の糸で繋がりながら同時進行する。

 一つはこの小説の基調をなす1947年のパート。とうに探偵業を引退した93歳のホームズがサセックス州の田舎で養蜂業を営んでいる。家政婦マンロー夫人とその子ロジャーとの三人暮らし。ホームズは利発なロジャーを自分の孫のように愛している。該博な知識と観察力で多くの難局を乗り切ってきた知性も翳りを見せ、そのことに怯えるホームズは老化防止に効果ありとされるローヤルゼリーに執着する。

 二つ目はロジャー達との日常の中で回想される、戻ってきたばかりの日本への旅のパート。これまた老化防止効果が望める植物・サンショウについて意見交換し親交を深めてきたウメザキの招待を受け、敗戦の傷跡も生々しい日本をはるばる訪れた。ウメザキの住む神戸からサンショウの自生する下関までの旅の過程で、ホームズは次第にウメザキが自分を日本に招いた真の目的に気付いていく。それはウメザキの父の喪失にまつわる、悲劇的な因縁ともいえるものであった。

 第三のパートはホームズが語り手となって1902年の事件を自ら書き記した体裁をとる『グラス・アルモニカの事件』。二人の子を続けて流産し、悲しみにくれる若妻アン。その心を癒すため、夫のケラーはグラス・アルモニカなる楽器の演奏を彼女に勧める。しかしそのアルモニカ熱は次第に歯止めの利かぬものとなり、やがては演奏を通して死んだ子供と感応し、霊的交流にふけるところまで昂じてしまう。見かねた夫は強引に妻から楽器演奏の機会を取り上げる。だがその後も妻は音楽家のもとに密かに通っているのではないかと疑ったケラーは、アンの調査を依頼すべくホームズのもとを訪れた。当初それは何の変哲もない〈平凡な案件〉と思われた。しかし予想に反してホームズの人生はこのアンとの出会いを機に大きく歪められることとなる。まさにアンはホームズにとってのファムファタル=運命の女であった。

 喪失の痛みがそこには描かれている。前半おもに描かれるのは《自分》を失う痛み。〈それはただの滑稽な話では済まされない、ぞっとするほど恐ろしいことなのだ〉。ずっと自分を支えてきた知性、その基盤をなす記憶力を失う不安・恐怖はいかばかりのものか。《あの》ホームズだからこそ真底〈ぞっとする〉のだ。そして物語が後半に進むにしたがって浮上してくるのは《誰か》を失う痛みだ。ロジャーが父を、アンが未生の子を、ウメザキが父を失った悲しみ・痛みが真に迫ってホームズに、あるいは私たち読者に実感されるまで、物語の後半を待たねばならない。失うとはこんなにも痛いことなのだ、そして失ってなお生き続ける意味を見いだすことは、〈平凡〉でも何でも無く、こんなにも困難なことなのだと、ミッチ・カリンの容赦ない物語が私たちに思い知らせてくれるはずだ。

 

ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件

ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件

 

 

ムツゴロウさんにおすすめしたい3冊

書いた人:藤井勉 2016年4月書評王
会社員、共著に『村上春樹を音楽で読み解く』(日本文芸社)。
「エキレビ!」でレビューを書いております。
http://www.excite.co.jp/News/review/author/kawaibuchou/

 

 ムツゴロウさん、はじめまして!1月29日の毎日新聞に掲載されたインタビュー、読みました。〈熊とか馬とかを命がかかっちゃうくらい愛するんです。だけど70を超えたころから、ふーっとなくなったんですね〉という発言にはびっくりしました。原因は不明とのことですが、解明したくはありませんか?
 飴屋法水という人がいます。2014年に『ブルーシート』で岸田國士戯曲賞を受賞した劇作家・演出家にして、現代美術、パフォーマンスライブなど活動は多岐に渡ります。1995年から2003年には、珍獣専門のペットショップ「動物堂」を開いていたこともありました。当時の経験をもとに動物の飼い方を指南するエッセイ『キミは珍獣(ケダモノ)と暮らせるか?』(文春文庫PLUS)は、今のムツゴロウさんにとって興味深い内容のはずです。飴屋は本書で、動物の飼育がいかに無駄な行為かを読者に説きます。たとえば、「動物は純粋」という世間の幻想に、〈自らの食欲、性欲に対して、貪欲なまでに純粋。(略)自分にウソをつかないだけで、他人のことはダマシますよ、ヤツら〉と警告を鳴らします。安易に動物を飼おうとする人には、〈別にそんなに楽しくない(略)飼っていても、毎日は極めて単調な日々なのだ〉と現実を突きつけます。そして、それでも一緒に暮らしたいという得体の知れない欲望こそが「愛」であると定義するのです。動物愛を論理的に語れる彼なら、ムツゴロウさんの気持ちの変化も読み解けるに違いありません。

  ただ、テレビで「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」を見てきた世代としては、動物に夢中であり続けてほしいとも思うのです。熊とか馬にのめり込めないなら、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『幻獣辞典』(柳瀬尚紀訳、河出文庫)があるじゃないかと思うのです。架空の生き物である幻獣を、古今東西の伝説や文学作品から100種類以上も紹介する本書。読めばきっと、愛情を注ぎたくなる幻獣が見つかるはずです。頭が100個ある海の怪物「百頭」に対して、一個一個の頭をなでる内にスタミナ切れを起こすムツゴロウさん。冥界の番犬「ケルベロス」とじゃれ合おうとして、地獄に連れていかれそうになるムツゴロウさん。想像するだけで、ワクワクしてきます。脳内にもムツゴロウ動物王国を建設して、架空の動物とのふれ合いを楽しまれてはいかがでしょうか?

幻獣辞典 (河出文庫)

幻獣辞典 (河出文庫)

 

 でも、今は小説の執筆に夢中とのことで、無理にとは申しません。ブラジルを舞台に、ブラジル人の楽天的な生き方を見習おうと訴える内容だそうですね。でしたら、マリオ・ヂ・アンドラ―ヂの『マクナイーマ―つかみどころのない英雄』(福嶋伸洋訳、松籟社)は押えておくべきでしょう。主人公マクナイーマはブラジルのジャングル奥地で生まれた、3人兄弟の末っ子。〈あぁ!めんどくさ!……〉が口癖で、なぜか英雄と呼ばれています。母の死をきっかけに、兄たちとあてのない旅に出たマクナイーマ。道中、森の神・シーと結婚するも死別し、川で失くした彼女の遺品を探しにサンパウロへ向かうも、女遊びにハマって時間と財産を浪費。サルに騙されて自分の睾丸を叩き潰して死にかけ、兄弟喧嘩でぶつけられたボールを蹴飛ばして、サッカーの始祖にもなります……って、どんな話だ?果たして彼は、本当に英雄なのか?読者の詮索もどこ吹く風と、喜びも悲しみも何もかも〈めんどくさ!〉で片付けてしまうマクナイーマ。その能天気さに、バカ負けすること必至です。そんなブラジル人の国民性を象徴するといわれる主人公とキャラの近い日本人を、私は知っています。ライオンに指を噛まれて中指の第一関節から先を失ったエピソードを、トーク番組で笑い話として語るムツゴロウさん、あなたです。いっそ自伝的小説を書けば、ムツゴロウさんの思い描く作品になりそうな気もします。とにかく、完成を楽しみにしています!

マクナイーマ―つかみどころのない英雄 (創造するラテンアメリカ)

マクナイーマ―つかみどころのない英雄 (創造するラテンアメリカ)

 

 

『エロ事師たち』野坂昭如(新潮文庫)

エロ事師たち (新潮文庫)

書いた人:山口裕之 2016年3月書評王
1969年生まれ。学生時代からのあだ名の「ルー」で呼んでもらうことも多いです。講座へは2007年4月期から参加。好きなものは自転車、ビール、ボードゲーム。嫌いなものは占いとエセ科学

 

 昭和五年(1930年)に生まれ、平成27年(2105年)12月9日に85歳で亡くなった野坂昭如は、作中人物のひとりに、自身と同じ10月10日の誕生日を与えている。昭和38年(1964年)に発表されたデビュー作『エロ事師たち』の主人公だ。

 スブやんは35歳。空襲で若くして母を亡くし、いろんな商売を転々としたあげく、盗聴テープやブルーフィルム(8ミリフィルムで撮影された家庭で上映できるエロ映画)を扱う「エロ事師」として世渡りをしている。全体は6章に分かれていて、1961年の年末から1964年の年末まで。この最後の年は東京オリンピックがあった年にあたる。
 スブやん制作のエロフィルムのカメラマン兼監督で、ときには主演男優もつとめる伴的(ばんてき)。ブツの運び屋でペットとしてゴキブリを飼っているゴキ。自分の作品でオナニーするのが最高というエロ小説家のカキヤなど、癖の強い仲間たちとともに、エロ映画を撮ったり、田舎から出てきたBG(ビジネスガール)をコールガールに仕込んで斡旋したり、はたまた通勤ラッシュで痴漢指南したり。エロ業界のさまざまな側面が活写されていて、発表当時は一種の実録・裏業界ものとしても読めたに違いない。
 表をはばかる商売ではあるが、スブやんはこの仕事を卑下してはいない。内縁の妻お春に寝物語に聞かせていわく「よう薬屋でホルモン剤やら精力剤やら売ってるやろ。いうたらわいの商売はそれと同じや、かわった写真、おもろい本読んで、しなびてちんこうなってもたんを、もう一度ニョキッとさしたるわけや、人だすけなんやで」。こうして他人のものを立たせるぶんにはいいのだが、お春の死後、その連れ子の恵子といたそうというだんになって、スブやんインポになってしまう。自らの不能を埋め合わせるかのように、彼はある野望に取り憑かれていく。
 セックス描写は多いが、読んで興奮するという書かれ方ではない。むしろ驚いてしまうのは、エロ事師たち苦心の作を貪欲に飲み込んでおかわりまで要求する客たち(スブやんいわく“色餓鬼亡者”)の旺盛な性欲だ。東京オリンピック前夜のアゲアゲの時代。男ばかりではなく、女もまたときに正直に、ときにしたたかに、自分の欲を満たそうとする。スブやんは「いっぱつバチーンと、これがエロやいうごっついのんを餓鬼にぶつけたりたいねん」との一念で商売にのめり込んでいくのだが、「亡者」たちの果てしない欲望の前には賽の河原のたとえが浮かぶばかりだ。
 生命力あふれる男女が描かれる一方、スブやんの側には、濃厚な死の気配が漂っている。しかも野坂は「死」をけっしてロマンチックだったり、意味あるものとしては描かない。たとえば作中でスブやんが、お春に堕胎させた子の亡骸を葬る場面。
〈翌日、山本山の海苔の缶に、土と共に包装された五ヶ月の胎児を、スブやんしっかとかかえ、伴うは伴的にゴキ、淀の川原を粛然として歩く。水際にいたって三人靴を脱ぎすて、うわべぬくうても、底は冷たい晩春の水に膝までつかり、「さあスブやん、この先きもうぐっと深いから大丈夫や、放り込んだらええわ」とゴキにいわれ、スブやんふと悲しさがこみあげ、「ほんまかわいそうなことしたなあ、せっかくチンチンつけて勇んでたのに、かんにんしてや」と半ば涙声でつぶやき、思いきってポーンと投げる。とたんにゴキ、鋭い声で「敬礼」と号令をかけ、三人そろって見事に挙手の礼〉。
 即物的な性と、即物的な死が隣り合わせで描かれる。だからこそ「生」のエッジがくっきりと立ち上がってくる。戦争どころか、戦後さえ遠くなりつつある現代で、本作の普遍性がかえって際だつようだ。生涯、性と生を描き続けた作家の、見事な処女作なのである。

 

エロ事師たち (新潮文庫)

エロ事師たち (新潮文庫)

 

 

『学校の近くの家』青木淳悟(新潮社)

 学校の近くの家

書いた人:長瀬海(ながせ かい) 2016年2月書評王
ライター・書評家(これまでの仕事リスト → http://nagasekai.tumblr.com
ツイッターID: @LongSea
メールアドレス:nagase0902アットマークgmail.com

 

 青木淳悟の小説を手に取り、最初の一ページをめくる前、いつもかすかな慄きに襲われる。それは私のなかにある小説についての既成概念がまた壊されるのか、という予感があるからだ。例えば、第25回三島賞受賞作の『私のいない高校』。カナダから来たブラジル出身の留学生を受け入れた高校の生活を無機質な、まるで日誌のような文章で綴ったこの小説は、「私」という、物語を動かすペルソナともいうべき主人公を徹底的に排除した作品となっていて、近代以降に作り上げられたあらゆる小説観をぶち壊す一冊だ。とある高校の先生が書いた留学生の日記がこの小説の原典として存在すると知り、作品を解読する鍵がそこにあるはずだと国立国会図書館に足を運んだが、作者の思惑がますますわからなくなるばかりで、頭を抱えたものだった。

 そんな経験が私のうちにあるものだから、本作を読む前にぎゅっと身構えたが、同時に心のどこかにほんのり期待もあった。また「小説」を壊してくれますようにーー。

 『学校の近くの家』は、平成になったばかりの時代を背景に、埼玉県狭山市の小学校に通う男子のスクールライフを描いた連作短編集だ。といっても学校小説と聞いて頭にすぐ浮かぶような、小学生の友情や周囲との葛藤を読者の情感に寄り添いつつ描いた青春モノではない。作者のたくらみはその彼岸にある。

 小学五年生の杉田一善は、全校生徒のなかで一番学校に近い家に、両親と9つ離れた妹の4人で住んでいた。物語はこの「学校の近くの家」を中心に、一善が五年生だった頃という過去を掘り返しながら、さらにそれ以前のおぼろげな記憶を遡り、また戻って来る、という具合に進んで行く。けれど、そこにはほとんど物語の起伏はない。断片的なエピソードが、驚くほど詳細な周辺地域のディテールとともに淡々と語られていく。小学二年生の時に、母親が妹を出産し、学校でちょっとした話題となったこと。社会の授業で地域の地図を調べたことをきっかけに、友人と放課後の冒険に出かけたものの、こころざし半ばで頓挫してしまったこと。母親が自宅の隣に新しく作られた学童保育所を任されたこと。歴史ゲームをやり込んでいたおかげで、学校の行事で披露することになった時代劇の企画立案の際にクラスの中心となれたこと。ドラマ性に乏しいこうした過去の逸話のひとつひとつが無感動な文章で綴られていく。

 ドラマ性を完全に脱臭する、その反・小説的な企て。それは次のような叙述のなかで行われている。例えば、母親の光子はかつて流産をした経験を持ち、過去から逃れるようにこの地にやってきた。しかし、そのエピソードは仄めかされるだけで、章題通り、「光子のヒミツ」は読者にも秘密にされる。それから、ストーリーの核となる一善の小学校生活も、全く郷愁を読者に押し付けない。ただ時折現れる、ファミコンソフトや空中で爆発したチャレンジャー号、光GENJIといった固有名詞からノスタルジアを読者が勝手に感じるだけなのだ。ドラマが隆起する手前で、作者はそこに蓋をするかのように筆を進めていく。

 さらに奇妙なのは語り手だ。一善の過去を探る語り手は、この主人公のことを「指標児童」と呼び、不確かな記憶をはっきりさせるために、一善を「抽出」あるいは「放送で呼び出し」て確認したいと言う。一善の作文、光子の日記、そして二人の記憶を手掛かりに物語を作り上げるこの不気味な語り手は、果たして何者で、何のために一善の過去を物語として紡ぎだしているのか。と、問うてみるものの、そんな問いすら虚しくなってくる。

 既存の小説作法から大きく逸脱したこの作者の技法は、凝り固まった小説観を破壊する。そこにこの小説を読む悦びがある。私はいま、本作を含めた青木淳悟の数々の小説を21世紀のアンチロマンという意味を込めて、ネオ・ヌーヴォロマンと読んでみたい。小説はまだまだ壊される余地があるのだ。

 

 

学校の近くの家

学校の近くの家

 

 

『犬の心臓・運命の卵』ミハイル・ブルガーコフ(増本浩子/ヴァレリー・グレチュコ訳 新潮文庫)

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)

書いた人:坂田耳子(さかた みみこ) 2016年1月書評王
犬好きの猫飼い。本まわりの仕事をしています。
https://twitter.com/coinu

 

いらっしゃいませ、犬専門書店書肆こいぬ(※)です。犬の登場する本を全世界から取り集めておりますので、必ずやお客様のお気に召す一冊が見つかると思います。さてさて、今日はどのような本をお探しですか? なるほど、犬が大好きだけど、最後に犬が死ぬ話は苦手。犬が最後まで死なない話がよいのですね。分かります、分かります。私も大の犬好きですので、犬が死ぬ話は人間が死ぬ話よりも読んでいて辛い。号泣必至なものをわざわざ読みたくないというお気持ち、よく分かります。

そんなお客様には新潮文庫から新訳が出たばかりのミハイル・ブルガーコフ「犬の心臓」をおすすめします。多少犬が手荒な扱いを受けますが、ご安心ください。犬は死にません!

モスクワの街をうろつく野良犬コロは無慈悲なコックに熱湯を浴びせられて脇腹を火傷、空腹も相まって息も絶え絶えのところをフィリップ・フィリーバヴィチ・プレオブラジェンスキー教授に拾われ、自宅で豪華な食事と手厚い看病を施されます。突如降って湧いた幸運にコロは鏡を見ながら、自分は「ひょっとしたら世に知られていない犬の王子様なのかも」「おばあちゃんがニューファンドランド犬と過ちを犯したのかも」と甘い空想を膨らませます。が、プレオブラジェンスキー教授がコロを連れて帰ったのには別の恐ろしい理由がありました。

若返りの研究で著名な医師であるプレオブラジェンスキー教授は、助手のドクター・ボルメンタールとともに、死んだばかりの男の精巣と下垂体を犬に移植する実験を試みたのです。つまりコロはその実験のためにプレオブラジェンスキー教授に連れて来られたのです。

人間の精巣と下垂体を移植されたコロは、思いもよらないことに徐々に人間化していき、術後一ヶ月も経たないで、完全な人間の外見となりました。そして、人間と同じものを食べ、自分で着替え、煙草を吸い、会話もスムーズに成り立つようになります。プレオブラジェンスキー教授の当初の仮定とは違って「下垂体の交換は若返りの効果ではなく、完全な人間化をもたらした」のでした。

人間となったコロはポリグラフポリグラフォヴィチ・コロフという名前を得、さらにモスクワ市公共事業局動物処理課長という役職(主な仕事は野良猫を絞め殺すこと)まで得ます。しかし、コロフは数々の問題行動を起し、さらにはプレオブラジェンスキー教授を反体制だと敵視するシュヴォンデルに加担、教授に反抗的な態度をとります。前科者の下垂体を移植したことから、今後コロフの更生は見込めず、ますます凶悪な人間となって、プレオブラジェンスキー教授を破滅へと追い込むと考えた助手のドクター・ボルメンタールはコロフの殺害を教授に提案します。が、教授は決してそれを許しません。教授はこう言います。「絶対に犯罪に手を染めてはならない。それが誰に対するものであったとしても。手を汚さないで、年をとるまで生きていくのだ」最終的にある手段を用いて、プレオブラジェンスキー教授とドクター・ボルメンタールはコロフの暴走を阻止します。しかし犬は死にません。

作者のミハイル・ブルガーコフソビエト連邦スターリン体制下で、反体制的な作風の戯曲や小説を発表し、その多くが発禁処分を受けました。この「犬の心臓」もプレオブラジェンスキー教授の反体制的な言動、党が推進する科学至上主義への揶揄から発禁処分になったと言われています。が、ブルガーコフの最も痛烈な体制批判は、この「殺さない」ことではないかと思うのです。醜悪だけど、非力なコロフを始末してしまうのが最も簡単な解決法でした。しかしプレオブラジェンスキー教授は最も手のかかる方法を選びます。それは簡単に人を殺して反対勢力を粛清していった体制へ「人間の本来のあり方」を示したともいえるのではないでしょうか。

ご安心ください。犬は死なないのです。


※ 実際の「書肆こいぬ」は犬専門書店ではありません。

 

 

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)

犬の心臓・運命の卵 (新潮文庫)